まだ兄様を「兄様」と呼び慣れていない時分
「白哉様」と呼んでしまったことがあったのだけれど、
振り返った白哉兄様の一瞬の悦びの色がさした顔色と、直ぐに落胆へと色を濁らせた表情が忘れられない
…ああ、模造品はやはりこの方の悦びすら触れられないのだと
私は何とか泣きたくなる手前で、謝罪の言葉を口にした
自室へ退がってから鏡台のまえで座り込んでいると、締めた帯の辺りから咽喉を突き上げるような不快な感覚が襲ってきて、
私は咽喉元へ両手をあてて、苦しくなる呼吸を何とか保とうとする
鏡には、模造品ではない“本物の彼女”が、首を絞められ喘いでいるような姿が映っていて、ふ と
このまま“貴女”なんて消えてしまえばいい―…
首にまわした指に無意識に力がはいる
“私”はふたりもいらないのだから
「―っ、は…っ私、」
―そんな自分の思考と行動に怖気を初めて感じた
でも、侵食はとまらずに
知らぬ間に生まれた独占欲
決して許されることは無い独占欲
そして、独占欲を私は『恋』と呼ぶようになった
暗闇に沈んだ雨乾堂は、見慣れた其れとは全く違う雰囲気であった
隊長の私物である濃紺の羽織を すっぽりと頭から被せられた状態で俯いていた私の目の前に、湯気のたつ湯呑が差し出された
其れに反応を返さずにいると、浮竹隊長は文机の傍の灯りを点け ぱらぱらと紙を捲る音が聞こえてきた
「……」
顔を上げ 湯呑を手のなかに収めると、冷たくなってしまっていた指先が溶けていく
「―すみません」
茶を一口飲んで、乾きを癒された咽喉から最初に出てきたのは謝罪で、その一言に浮竹隊長は苦笑しながら、ゆっくりと此方を振り返られる
「転んだ傷は―何処か痛むか?」と薬が入っている棚を探りながら言う浮竹隊長に「大丈夫です」と返すと、「大丈夫じゃないから、泣いていたんだろう?」と言われてしまった
向かい合う位置に浮竹隊長は腰を下ろすと、
「何があった と俺は聞いて良いのか?」 慎重さを含む 静かな質問だった
「……私は―」
「…白哉のことか…?」
「!」
「最近 悩んでいただろう…何となくだが―朽木の、隊長だからな」
大きな手が、私の頭に置かれる それだけで気持ちが 緩んだ
「あいつも器用じゃないからなぁ…」
―そうではない、けど それは違うわけでもなくて…
「―っ私は、兄様といると…今のままでは苦しくて、だから離れて、でも…っ」
頭のなかのもの全部 吐き出していっているようだった
言葉には未だ変換出来ていないそれらを嗚咽と共に絞り出す
「変わりたい…変えたいのです 今の状態を、私を」
最後の言葉を言い終わると同時に、やさしく抱きすくめられた
「辛いな 朽木…」
「浮…竹 隊長」
また新たに滲んだ涙を、やさしく指が触れ 取り去っていく
私の、私自身の気持ちと同じような
輪郭のぼやけた月が空に浮かんで 此方をみていた
あの日から、十三番隊舎で寝泊りする生活を送るようになった
元々 殆ど使われていなかっただけあって、仮眠室を借りていても 何も支障無かった
浮竹隊長は「俺も似たような生活をしてるからな」なんて笑って、快くこのことを了承してくれた
朽木家の者には隊務が忙しくなった故と伝えた
そして、兄様には使用人から伝わるだろう
それに、此処に居坐らせてもらうのも あと少し
以前 出していた遠征部隊への配属認可通知が、昨夜 届いた
戻 進
目次